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長崎で入市被爆した体験を語る宮本須美子さん=2024年7月24日午後3時34分、札幌市白石区、新谷千布美撮影
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 宮本(旧姓・鍛冶)須美子さん(86)=札幌市=は、被爆体験を語るとき、白い花のイヤリングをよく身につける。長女・朋美さんが作ったものだ。

 手先が器用で、アクセサリー作りや刺繡(ししゅう)が趣味だった。49歳の若さでこの世を去った。悪性リンパ腫だった。

 「あのとき爆心地を通ったから」。その思いが年々強くなる。

 姉も50歳でがんで亡くなった。原爆投下から3日後の長崎を、一緒に歩いた。長女の姿が姉と重なった。

 生まれたのは名古屋市。当時は、航空機生産の拠点だった。5歳になる1942(昭和17)年から空襲が本格化。毎晩のように警報が鳴る。月明かりで爆撃機が照らされ、細長い爆弾が雨のように降り注いだ。

戦火から逃れようと長崎へ

 7歳の時、父が空襲の犠牲になり、当時13歳の兄と8歳の姉がわんわん泣いた。「泣いてもお父さんは帰ってこないよ!」。言った自分も泣いていた。

 約2カ月後、母ときょうだい4人で、長崎市の母方の祖父母宅に身を寄せた。

 名古屋とうって変わって、のどかな雰囲気があった。近くの山には大きなトンネル型の防空壕(ごう)もあり、安心感があった。

ノーベル平和賞が日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)に授与されます。ヒロシマとナガサキを離れても、体験を語り続ける被爆者がいます。その思いを聞きました。

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